様々に去来する思いを透かして
愛するチベット民謡を感じてくれたら。
エマレホー、Tibetan Indigenous Music!
なんて素晴らしい!
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2015.06.01.Mon | -
流れ星
12日 22:00PM 〜 13日 3:00AM に極大期を迎えるペルセウス流星群。
私は近くの砂浜にいつものごとく大の字になって、夜空に振る流れ星を見に行こうと思う。

あまりに様々なことが起きる最近。
こうやって海や星々とつながることは安心感をいただける。
自然のことをいつも感じていたい。
昔とはずいぶん変わった。





2013.08.10.Sat 17:47 | -
海風わたる
 沖縄に住むことになった。

低線量被爆から愛息を守るため。
ねつ造され過小にされたチェルノブイリの膨大な被爆被害データを知り、また、普通ならば起きるであろう最大余震によって想定される東京の悲劇を考え、苦渋の選択。
「後悔先に立たず」は、息子の命に関してだけはごめんだ。
多くの真摯な研究者達の調査結果は無惨にも歪められ、矮小化され、無視されて、思い込ませたい状態がもっともらしく語られている。

今は危機管理の原点に立って、疑わしきは回避する態勢を選択したい。
けれども、パートナーと離れるのはほんとうに胸が痛む。

原発事故で実に様々なことに思いを巡らすことになったという意味では、この惨事もgiftだったのだろう。
今まで、自分達日本人が、そして世界の先進国と言われる国が何をやってきたかということにやっと目が向けられた。
絶望した・・・。

でも、そこからまた再び私たちは始まるしかない。
たとえ醜く汚れきっていても、真の姿を見ることでしか真のスタートをきることはできない。



沖縄のこの丘の上のこの部屋にはいつでも海風が通る。
東京ではこんな爽やかな風が吹くのは年に2〜3日くらいじゃないだろうか?
風にゆっくりと揺れる遠くの木の、同じ枝に毎日同じ鳥がやってきて美しい声で鳴く。
早起き鳥もやって来る。
本当によく通る美声。
レギュラーメロディーでさえずれない鶯も極上だ。

朝と晩の 6:00 には三軒となりの修験道の寺院の鐘が鳴る。




そうだっ! ハンモックを買おう!

沖縄のほんわかと優しいおじいやおばあにも会った。
不思議な明るさの、情に篤い不動産やさん、誰にでも話しかけちゃう友人、思わず世間話をしてしまう家具屋さん、何気なく面倒見のいい電気屋さんに支えられて、少し緊張をゆるめての新生活の始まり。


LEQUIO (沖縄の人はかつて外国からこう呼ばれたそうだ)に 感謝。
カミの島、琉球島 にも 感謝。    
                                   拝

2012.05.04.Fri 15:59 | -
誰もがみな豊かな地球となりますように
いよいよ 2012 年。
年の初めはこの映画のご紹介から。
東京直下M8、東南海M9、富士山噴火が近いなどと言われていますが、皆様の判断やいかに。

 http://thrivemovement.s3.amazonaws.com/downloads/300x250.jpg

2012.01.19.Thu 16:06 | お知らせ
いいんじゃない? これで
ところで唐突だが・・・ここ一週間、私は甘美な幸福感に浸っている。



それは、Hazrat Inayat Khan 様(と呼ぶしかない)の『音の神秘』のせいだ。
しかも、meaningful coincidence までがおまけでついてくるのだから、キュンとする気持ちが容易にわかっていだけるだろう。
シャブナム・ヴィルマニ監督作品、『カビールを巡る旅』の中のぁ悒丱供璽襪卜つカビール』
そして春秋社の雑誌『春秋』に掲載されていたTA教育研究所研究員、入江寿香氏の『五大にみな響きあり++静けさの向こう側へ++』
とHazarat 様と私が同時に目を合わせた。


自分自身の音の道、自分なりのチベット民謡の表現のし方、理解のし方について悶々と悩んでいた日々が、じわりじわりとこれらを念力のように引き寄せたのかもしれない。
こういう時は?
神様がOKを出されているしるし。
「あなたはそれでいいんじゃない?」と。
                                                                                                                   つづく・・・


2010.11.17.Wed 14:18 | チベット音楽文化
チベットの風が
知りたい事が山とあり、考える事が山とあり、だから調べてしまう事が山となり、別途やらねばならぬ事が山とあり、やらなくてもよいのにやっちゃう事が山とあるために、思った通り、投稿に間があいてしまった。
そこで、律儀な投稿量を維持することや、文章の完成度や整合性を放棄し、頻度を増すよう心がけたほうがよさそうだと反省。
これを楽しみにして下さっている方々、イベントやパーティーでお会いしたり、コンサートにいらして感想を伝えて下さった方々のお顔が目に浮かぶから。
喝を入れていきます。



最近、「チベットの風」という言葉を耳にするが、どうやら日本の自然の豊かさ、つまりはそれに育まれて形成された我々の感覚や思考の独自性(この部分は私の意見)は、チベットという高い高い高原があったればこそらしいっ。

NHKのBSで知ったことだが、なんだか不思議な縁を感じてしまうなあ。
今から3500万年前にヒマラヤが隆起し始め、チベット高原ができ、地球の偏西風がそこに衝突して曲がったためにインドからの湿った空気などが大量に運ばれ、日本に「梅雨」が生まれることとなったのだそうだ。
この緯度には、ゴビ砂漠やサハラ砂漠、タクラマカン砂漠等、乾燥した土地が多いにもかかわらず、日本だけが雨に恵まれているのは、そのせいらしい。
結果、砂漠どころか世界でも有数の豊かな森にあふれる国土になったのだとか。

ありがとう、チベットの大地。
そしてインドの湿気!


・・・と、きれいに終わったところに、もう一言。
ってことは、我々はインドの水を飲んでる?
ガンジスを?
ん〜、ほんとonenessですなあ。
私の血の中にはガンジスが流れている!?
私の肺の中には中国人の吐息が入っている!?
made in どこ〜?
分けられませぬ、物理的にも。
We are all brothers and sisters !
We are family !
おあとがよろしいようで。


2010.10.31.Sun 10:59 | 日本人
チベットジンデハアリマセンガ

私はチベット人の歌い方を真似してます。

私はチベット人の弾き方を真似してます。

私はチベット人の踊り方を真似してます。




ガイジンだし、だからこそ全く知らないから、それしか方法はない。

自分の限界まで真似したら引き返し、自分の歌との接点を探ろう。

などと、ちょっぴり気弱な回路で考えていた。

が!、個性とはゼロから生み出すものではない、真似や他との関係性により生じるのだと言うではないか。

そういえば、私がかつてデザインの仕事をしていたころ、生みの苦しみで悶々としていた時にも、創造というのは無から生み出すのではないということを知った。




意志をもった真似という行為は、人間のみにしか出来ないそうで、その真似はとことんやったとしても、当たり前だけれど全く同じにはなり得ない。

ずれちゃうのだ。

そのずれちゃったところが個性だということらしい。

これは、ゴリラの研究家の言なのだが、この点に積極的な価値を見いだしてくれたのはなんだか嬉しい。

ずれ「ちゃった」んじゃなくて、手本となるその人と違う自分だからずれ「ちゃう」ところこそ他と違うところ。

真似の結果自分のオリジナリティーを発見することになるというわけだ!

ということは・・・?

個性とは、創り出すものではなく、そこに既にあるもの?ということなのか?!

ちょっとちょっと、そこは慎重に発言しなくてはなりませんなあ。

これは個性の定義というとてつもないことを言わねばならん。

ん、でも、たとえ創り出すとしても、そこには自分の中に既にあるものを頼ってやるしかない。

どっちみちたどり着くところは一緒か。

創り出す過程が意識的であればあるほど、個性というより奇をてらった度がより高くなってしまうとは言えるのかも。




これは、自分の傾向を見定めることかな。

こうしたら人と違った風になるんじゃないかと考えるのではなく、何をやっても気がつくと立っている場所、つい足が向く方向のようなものを見極めることが自分の自分らしさに気づくことになるんだろう。

ならば、じゃんじゃか何も考えずに大手を振って真似しようじゃないか。




ある曲のどこに惹かれるかなんてのも、その人らしさだろう。

今日、新曲を練習していてチベット民謡に私が惹かれる理由のひとつに気づいた。

優しい心遣いや、親しい人々と自然と仏教とが結びついた内容の歌詞を、大きな声で淡々と歌う爽快さ。

三文映画で、思い余って「あいしてるうー。」なんて丘の上で叫ぶシーンを思い出して欲しい。

その叫んだ主人公は(すっきりしたあ)という顔でしばらくその場に立ち風に吹かれているだろう。

そんな感じだ。






   愛する人が北に旅立たれると言うのなら

   あなた、年端も行かぬ私は悲しい気持ちになります



   その腰に 刀を差して行かぬのなら

   あなた、チャンタン高原辺りの山賊はたいそうひどいですよ

   



                   (チベット民謡『プチュンジャンラ』より抜粋)

 





dolls

2009.10.22.Thu 14:25 | チベット音楽文化
つらつらと
帰国後、日本のこまごまとしたことに翻弄される日々。
胸にヒットしたことはあるのだけれど、反芻する間もなく、次のことがやって来る。
書きますよ、書きます。
待たなくていいですが、そのうちまた気が向いたらおいでください。

あ、そういえば、昨夜ピワンをつらつらと弾きながら、唯一チベット問題への勇敢な姿勢を見せていた大統領が、やはり商売を捨てることはできなかったことをふと思い出したら、弦がこすれる音が悲哀を帯びてきた。
やっばりだめだった、か・・・と。
気持を立て直すのは一体これで何回目だろう・・・と。

同じ楽器でも、同じ奏者でも音がこんな風に変化する。
実感。
私は、その悲痛な擦音で何コーラスも何コーラスも、何コーラスもピワンを弾き続けた。


   あー、あちらの方
   ラサがない所に
   ラサができたよ
   あー、あちらの方に
   
   ラサがない所に
   ラサができたよ
   あー、あちらの方に

   ラサがない所に
   ラサができたよ
   ラサが海の上にできたよ

   あー、あちらの方
   チャムドがない所に
   チャムドができたよ

   あー、あちらの方
   デプンがない所に
   デプンができたよ

   あー、あちらの方に
   あー、あちらの方に

2009.04.04.Sat 20:36 | チベット音楽文化
曙の白き月
さあ、今日は約一年の滞在を終えて、この町を去る日。



これまで、ほとんどはチベット人達の良い面を書いてきたように思う。
それは私にとり、そちらの方が強く影響力を持ったからだ。
もちろん彼らの短所のように見えるもの(必ずしもそうとは言えないが)にも沢山出会った。
頑固、いい加減、血の気多すぎ、口悪い、視野狭い、おちょくり好き、調子いい、粗野・・・・
でも、それが何だ。
非常に近しい間柄を築くなら、その時は長い年月をかけて誠実にその人物と私との調整を計るまでのこと。
例えば一つの椅子があって、傷がついていたり、しみがあったり、少し角がかけていたり、きしむ音がするとしても、座り心地がよければそこにゆったりと身をあずけて何度でも座るだろう。
たとえ、寸分違わぬ精密な設計をされ、新品同様の椅子であっても座り心地が悪ければなかなか座る気が起きない。



私は今のところ(と一応言っておくが)彼らの中にいると居心地がいい。
そして自分の中に宝を眠らせたままにしていることを、彼らは自らの宝を分けてくれることでわからせてくれる。



例えば私は昔から人を喜ばせるのが好きな質なのだが、それが空回りしていない。
そら寂しい長年のくすぶりが何やら報われた気がする。
今までは心を許して人と親しくなりたいのだけれど空気が抜けてしまうような感じだった。
壁のような、こちら方向に開きにくいドアのようなものの存在があったというのか。
それが今やいろいろなところで往復できる。
というか、入り口は開けっ放しだ。
しかもここではさらっと、けれどもぐっと親しくなれるという良い感じでお近づきになれる。
兄弟や親戚みたいというのが当たっているだろうか。



さて、いままでの投稿がつじつまの合わぬことになっているかもしれないことは否定しない。
ある日のブログとブログが、あるいは、あの頃の私と今の私の言う事が。
変化するということだけが変化しないのだから仕方のないことなのですっ。
皆さんも、ご自分の体と脳みそを使って考えてみて下さい。
それからここを去る前に、我が息子に感謝の意を表したい。
彼の報告がなければ、このブログは書けなかったし、チベット人の理解も深まることはなかっただろう。
私のしつこい質問にもいやな顔ひとつせず、いろいろなことを答えてくれた。
ありがとう。



昨日は、チベット人を真似して息子と二人お寺詣でをした。
マニ車を回しながら仏の周りを右回りに3週し終わると、そこには曙の白い満月を背景にチベット人達が一心に五体投地をしている絵のような光景が待っていた。
自然と祈り。
雑踏に紛れ、予定に振り回され、いろいろな種類の請求書を手にして時計を気にしている私は、なんと遠いところに来てしまったのだろう。
人々と混じり合うことをいつから止めてしまったのだろう。
自分の中にある『時』に従って心ゆくまで笑うことをいつから忘れてしまったのだろう。
いつからegoで止むことのない分析を続けるようになったのだろう。



この町で私はほんの少し、そんな自分を外から眺めるようになっていた。
外から来るものを、そのまま素直に受け止める子供達に助けられ。
親切という小さなことがとてつもなく大きなものであることを人々にに手渡されながら。





Nomad woman



また、日本でお会いしましょう。
このブログ?思い出したように書くかもしれません。

2008.12.15.Mon 14:55 | チベット人
トンカツ東方見聞録
トンカツ君のスポンサーは日本人の老夫婦。
実は昨年、招待されて日本に行ったそうだ。
今日は、その見聞録を皆さんに披露しよう。
亡命チベット人の子供が、どんな風に日本と出会うのか。
涙を拭くハンカチを用意してお読みください。
いや、もちろん、笑いの。



彼はお正月に日本を訪れたらしく、とりわけジャパニーズな始まりだったようだ。
「ご飯を食べる前に、最初からおしおきだぜ!
(正座は確かに痛いねえ、チベット人はおしおき以外はやらないからね・・・まだ何もしていないのに、のっけからかわいそうですなあ、トンカツ君)
そしたらさ、ドアを横に開けて人が入って来てさ、
(横にねえ。確かにここもチベットも違うね。)
ヤッ!そうなんだよ、日本はさ、ドアが紙でできてるんだぜ。
(日本人の知恵と大胆な発想に脱帽かい?)
それにさ、床は草なんだぜ。
(紙と草かあ。なんか、そう表現すると妙に貧乏臭いじゃないか、トンカツ君。)
一番目に出て来たのは、ちいーっちゃな白いお皿に、まるで日本の旗みたいに、真ん中に赤くて丸いのがぽつんとひとつはいってるやつなんだ。
(小皿に梅干しか?)
でさ、お湯をくれたんだけど、僕には大きい茶碗なんだけどさ、おじいさんとおばあさんにはすっっっごく小さい茶碗なんだ。
こんなだぜ。
それをさ、おいしそうに飲むんだよ、変だろ?
(トンカツ君、それはお酒だ・・・。お猪口というものなのだよ。君のは薄いお茶だね、お茶。)
でさ、焼きそばを食べるやつあるだろ、あれがさ、石の上に置いてあるの。
石の!
(ナヌ? 石? ますます、貧乏臭いんだけど・・・。 あ〜あ!箸置きの上にお箸ね。)
お椀の中に紙みたいなぺらぺらのものが入っててさ、かきまわすと、底の方のがさ、ぼわーってひろがるんだ。
(お味噌の特徴をよく表現してくれました。)
で、他の所に行った時さ、階段を上がっても上がっても、上に行けないんだ。
日本のポリスがいてさ、注意されたんだけど、逃げようとしても降りて来ちゃうんだよ。
(君!エスカレーターで遊んだね。警備員さんご苦労様です。)
あとさ、ゲームをやるところに行ったらさ、ドアが開いて、そこに入ると、誰かがボダンを押すだろ、そうするとその部屋がさ、上行ったり、下行ったりするんだぜ。
(お次はエレベーターか。)
でさ、喉が渇いたって言うと、おばあさんがお金を穴の中に入れて、ボタンを押したらさ、飾ってあるジュースの缶は落ちてこないで、違うやつが落ちてきたんだ。
そしてさ、下の方の小さなドアを開けるとそこにあるだんよ。
(そう、缶は空っぽ。奥の方に本物がしまってあるの。自動販売機って日本以外ではほとんど見かけないよね。)



トンカツ君の話を興味津々で聞いていたO.C.B.boysは、日本をどんな国だと想像しただろう。
太陽君は、この話から日本に行ってみたくなったようだ。
実はTIPAの青年達もトンカツ君とほぼ同様。
彼らは、自動販売機に入れたお金の落ちて行く道筋を、販売機に耳をつけて辿り、エレベーターのドアが、挟まったものを感知して開くのを、足を挟んで何度も試したりしたんです。
息子は、おまえもやってみろと言われてひきつり笑い。
おそらくは、ここに戻ってから、アーティスト見聞録が大盛り上がりで披露されたことだろう。
チベット人っていろいろなことに好奇心のあって、カワイイッ、のだ。





No Parking Door





2008.12.15.Mon 14:53 | チベット人
戯れなら選択だ
なんだかんだと書いてきたのだけれど、実は、全ては宇宙の揺らぎにすぎない。
コズミック・ダンス? 幻影? 光のきらめき? カルマの風の動き? 湖のさざ波?
何と呼んでも構わないが、善も悪もなければ、上も下もなく、被害者も加害者もない。
従って、何かを語るのも戯れているにすぎない。
このブログもそういうこと。
皆が、皆の抱えられる分だけ抱え、それたいだけそれたりしながら、好きなように自らの生き様を体現している。
それならば、もっと見たいものを見たらいいんだ。
人は見ようとするものを見るのだから。
悲惨さから目を転じ、チベットの凛とした立ち姿にみとれようじゃないか。
デモで表現するのは構わない。
それは表現だ。
苦しみ、悲しみが湧いてきて仕方がないよ、止めて欲しいんだという気持ちを外に表している。
しかしそこにロックされてしまっては、もしかしたら状況を長引かせてしまうかもしれない。
子供達だってかわいそうがってばかりいたら前に進めないだろう。
彼らの独自の美しい文化や貴重な文化遺産や今まさに生き生きと息づいている人間らしさにフォーカスし、どんな状況でもやっていけると思えるような方向にエネルギーを注いだらどんなに役に立つだろう。



だからもしも気に入ったならばチベット文化に魅了され、それを讃え、それを手に取ってみたらいい。
もしそうしたいならば。
仏教や医学、旅、民族衣装や仏具、チベット語、写真、動植物、歴史、政治、伝記、昔話、ヒーリング、チベット人との交際、アクセサリー、そして音楽・・・。



私にできることと言ったら、チベット人や彼らの音楽文化の素晴らしさを感覚的に伝えること。
『歌の国』
チベットの別名だ。
それほどざくざく宝の山なのだ。
一つ手に取ってその輝きに目を奪われ、ほれぼれとしていると、さらに視野の中にさらなる輝きを放つ宝がそのきらめきを見せてくれる。
私は何年も演奏しているが、次々にそれぞれの曲や地方の異なった魅力に心を奪われ、未だ飽きる事がない。
習得にはちょっと手を焼くから、また手応えがあって病みつきに。
新たな分野をある程度練習していくうちに、「ああ、こういうことか。」とそのツボなり個性なり魅力が見えてくる瞬間が訪れるのがたまらない。
そうすれば、その新たに発見したゾクゾクに乗せて演奏ができるのだ。



馬の並足から速歩へと変わるようなアップテンポパートへ移る瞬間。
いつのまにか恍惚な状態へと誘う、延々と繰り返される心地よいテンポ。
会話の楽しさがある歌垣のやりとり。
数え歌のようなかわいらしさのある、パターンの一定した歌詞。
ん〜快感快感!快感だあーっ。
・・・と失礼、つい、自分の世界に入ってしまいました。



今オペラを聴きつつこれを書いているのだが、凛々しさに聞き惚れてしまう。
聞くだけでなく実際に習うことによって見えてくる違いがわかると、味わいがぐっと深まる。
ロングトーンはこんなにロングだ。
こんなに力強い声のままこぶしを回していたんだ。
こぶしのいろいろな種類にも様々な美しさがあるなあ、などと。
1人2人、大好きなアーティストができるとまた違った鑑賞となる。
他のアーティストとの違いが見えてくるころには、自然とチベット音楽文化の肌に触れる入り口に立っている。
そこへ皆さんを誘うためにできることをさせていただきます。





Reading Lhamo







2008.12.15.Mon 14:43 | チベット音楽文化

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