様々に去来する思いを透かして
愛するチベット民謡を感じてくれたら。
エマレホー、Tibetan Indigenous Music!
なんて素晴らしい!
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2015.06.01.Mon | -
チベットジンデハアリマセンガ

私はチベット人の歌い方を真似してます。

私はチベット人の弾き方を真似してます。

私はチベット人の踊り方を真似してます。




ガイジンだし、だからこそ全く知らないから、それしか方法はない。

自分の限界まで真似したら引き返し、自分の歌との接点を探ろう。

などと、ちょっぴり気弱な回路で考えていた。

が!、個性とはゼロから生み出すものではない、真似や他との関係性により生じるのだと言うではないか。

そういえば、私がかつてデザインの仕事をしていたころ、生みの苦しみで悶々としていた時にも、創造というのは無から生み出すのではないということを知った。




意志をもった真似という行為は、人間のみにしか出来ないそうで、その真似はとことんやったとしても、当たり前だけれど全く同じにはなり得ない。

ずれちゃうのだ。

そのずれちゃったところが個性だということらしい。

これは、ゴリラの研究家の言なのだが、この点に積極的な価値を見いだしてくれたのはなんだか嬉しい。

ずれ「ちゃった」んじゃなくて、手本となるその人と違う自分だからずれ「ちゃう」ところこそ他と違うところ。

真似の結果自分のオリジナリティーを発見することになるというわけだ!

ということは・・・?

個性とは、創り出すものではなく、そこに既にあるもの?ということなのか?!

ちょっとちょっと、そこは慎重に発言しなくてはなりませんなあ。

これは個性の定義というとてつもないことを言わねばならん。

ん、でも、たとえ創り出すとしても、そこには自分の中に既にあるものを頼ってやるしかない。

どっちみちたどり着くところは一緒か。

創り出す過程が意識的であればあるほど、個性というより奇をてらった度がより高くなってしまうとは言えるのかも。




これは、自分の傾向を見定めることかな。

こうしたら人と違った風になるんじゃないかと考えるのではなく、何をやっても気がつくと立っている場所、つい足が向く方向のようなものを見極めることが自分の自分らしさに気づくことになるんだろう。

ならば、じゃんじゃか何も考えずに大手を振って真似しようじゃないか。




ある曲のどこに惹かれるかなんてのも、その人らしさだろう。

今日、新曲を練習していてチベット民謡に私が惹かれる理由のひとつに気づいた。

優しい心遣いや、親しい人々と自然と仏教とが結びついた内容の歌詞を、大きな声で淡々と歌う爽快さ。

三文映画で、思い余って「あいしてるうー。」なんて丘の上で叫ぶシーンを思い出して欲しい。

その叫んだ主人公は(すっきりしたあ)という顔でしばらくその場に立ち風に吹かれているだろう。

そんな感じだ。






   愛する人が北に旅立たれると言うのなら

   あなた、年端も行かぬ私は悲しい気持ちになります



   その腰に 刀を差して行かぬのなら

   あなた、チャンタン高原辺りの山賊はたいそうひどいですよ

   



                   (チベット民謡『プチュンジャンラ』より抜粋)

 





dolls

2009.10.22.Thu 14:25 | チベット音楽文化
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2015.06.01.Mon | -

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